本の感想2
伊藤幸弘「僕たちはいらない人間ですか」扶桑社
大きな暴走族の元総長で現在非行青少年の更正ボランティアをやっている方が少年院に入っている青少年の言葉にコメントをつけています。 この方は「ホンネと愛情」をモットーに時には怒鳴ったり、拳で語ったり、で熱く語り合っているそうです。コメントもかつて自分が荒れていた時期の経験なども交えて語っています。 こういう立派な本にあえてツッコミを入れます。
非行青少年に対する態度は見事だと思います。でも、親や教師にたいするコメントはどうかなぁと思います。親や教師はまた同じ感情ある人間なんですから。
包丁を突きつけられたり、殴られたら怖いでしょう。憎みたくもなるでしょう。世間体を気にするのは当然じゃないですか? 世間体というのは生活していくための知恵です。生活できなくなって、子供と一緒に共倒れしたらおしまいでしょう。親には幸せになる権利はないのでしょうか。
いくら血がつながっているからといって何をやっても迎え入れろというのは無理でしょう。逆に子供を馬鹿にしていませんか。 対等な人間として、嫌なときは嫌だということをきちんと伝える、迷惑かけたら拒絶されても仕方がないことをきちんと示すことが大切じゃないでしょうか。そうじゃないと何しても大丈夫になってしまいます。嫌な思いをして初めてどうしてこうなったと振り返るものじゃないですか? 最初からわかるような人間だったら馬鹿はやりません。 まあ、完全に切り捨てずに、どこか見守る気持ちはあってほしいですけどね。馬鹿やっているうちはともかく、立ち直ろうと足掻き始めたら、できる範囲でいいので手を差し伸べてほしいと思います。本当の親や教師に限らず。
立ち直ろうとしているのに、拒絶された。 確かに気の毒だと思います。でも、いきなりわかってください、信用してくださいというのは無謀なんじゃないですか。信用というのは積み重ねです。これという迷惑をかけずに普通に暮らしている人間だって人に信用されるのに苦労して、努力を積み重ねているのですから。 一度落とした信用を取り戻すのはかなり時間がかかるものです。スタート地点が遠くなり、苦労するのはしょうがないんですよ。 逆にそうじゃなきゃ、立ち直ってまっとうに生きるのが馬鹿馬鹿しくなりませんか? 努力してもしなくても同じだったら努力する意味がわからなくなりませんか?
都合のいいようにするように強要する親や教師に向かってのメッセージだとは思います。「ただ甘やかすだけ、拒絶するだけじゃダメだ。きちんと叱れ」というメッセージがしばしば出てきますし。普段の活動内容や対談を見るとよくここまでできるなと思います。 でも、ついつい反論したくなるんですよね。「そこまで聖人君子になれない」と。
不思議ですね。東京母の会連合会「ざけんなよ」集英社 のときは素直に「頑張れよ〜。こういう子達を受け入れる環境が必要だなぁ〜。もっといい大人もいるんだよ〜」と思ったのに。 あ、そう言えば「ざけんなよ」は家庭環境や罪状が割と詳しく載っていましたね。(淡々と事務的に説明されているところがかえって壮絶さを際立たたせているような気がします) 壮絶な方々が多かったというのもあります。さらに本人の文章が全文掲載されていました。大人を責める言葉もありますが、悩んでいたり、謝ったりなども入っています。 やはり情報が多い方がより感情移入しやすいようです。
ただ、読みやすさでみるとこちらでしょうか。さすがに講演などもしている方だけあるなと思います。どういう言葉で嬉しいのか、悲しいのかがはっきりしていてわかりやすいですし。 この方がどうしているかが具体的に書いてあるから、当事者が取り組みやすいというのもあります。この方のようにはできなくともとりあえずできるところからという手引きになると思います。
好みでどうぞというところでしょうか。それ以前にこういうの読まないという話もありますけどね。ただ、彼らへのメッセージを考えながら読むと自分の悩みへの回答がみつかると思います。
自分へのメッセージを書いているような気がした |